銃規制はナンセンス?

アメリカの小学校で銃乱射事件があったようだ。(最下部に引用記事)
この類の事件が起きる度に銃規制の声が高まる。今回も同様なのだが、いつも尻すぼみのまま消えるのが常だ。アメリカ人にとっての銃は自由の証、しかも「自分の身は自分で守る」という確固たるアイデンティティが確立されている。
仮に大規制が施されたとしても、2億丁以上とも言われる所持済みの銃が没収されるわけではなく、規制の効果としては非常に懐疑的だ。
そもそも、「銃による凶悪犯罪が多発しているから銃を規制せよ」という考え方はどうなのだろう…。例えば、日本で包丁を凶器にした通り魔が後を絶たないからといって、包丁の販売を規制するのだろうか。憎むべきは“道具”なのか…?
日本の歴史上、喧嘩の武器は刀だった。現在でも大河ドラマや時代劇などでは殺陣のシーンが少なくないが、日本人は誰一人として問題にするわけでもなく、平気な顔で視聴している。
銃によって罪のない子供たちを殺害した犯人が憎むべき存在なのは確かだが、大量殺人というインパクトが強いためか、問われるべき本質が違っているような気がする。銃を一掃したところで犯罪も一掃されるわけではなく、問題はもっと別のところにあるのではないのか。
視点を変えて考えてみると、銃刀法のある日本で、なぜ警察官(自衛官は除く)だけが拳銃の携帯を認められているのか。それは、時と場合によっては裁判も省略した、結果的な処刑(射殺)も余儀なしという権限を与えられているからだ。
相手を殺す事をも厭わない“暴力”(権力)によって、私たちは暴力から守られているのだ。法律も、警察や司法判決という制裁的暴力の後ろ盾があるからこそ機能している。結局のところ、社会を根底から支えているのは暴力なのだ。
(猟銃などを除き)市民が銃を所持できない日本でも、凶悪事件は頻発している(犯人の多くは日本人ではないのだが…)。人類の歴史は戦争の歴史でもあり、社会コミュニティにおいても、暴力はなくとも嫉妬や憎悪という負の感情は常に渦巻いているものだ。
何とかのひとつ覚えのように「平和」という言葉に固執する輩はたくさんいるが、まずは「この世にユートピアはない」という現実から考え始めるべきだろう。
米、小学校で銃乱射し26人殺害 子供20人犠牲、容疑者死亡
【ニュータウン共同】米東部コネティカット州ニュータウンのサンディフック小学校で14日朝(日本時間14日深夜)、男が校舎内で銃を乱射し、5~10歳の子供20人を含む26人を殺害した。警察は校舎内で男が死亡しているのを発見した。自殺とみられる。
米国で起きた近年の乱射事件としては、2007年に南部バージニア州のバージニア工科大で学生ら32人が殺害された惨事に次ぐ規模。今回は子供20人が射殺されるという前例のない事件で、銃社会の問題点をあらためて示した。
ニューヨークの日本総領事館によると、同小学校には日本人3家族の子供計5人も通っているが、全員無事だった。
(共同通信 2012.12.15)
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カテゴリ : 国際時事