異国&劇場型ほど重くなる「国民の命」

テロリストたちの標的が、ついに日本にも向けられたようだ。
イラク、シリアの過激派「イスラム国」が、日本のイスラム国対策の拠出金と同額の2億ドルを日本政府に要求、拘束している日本人2人を両側にひざまずかせた動画を公開し、命と引き換えにしている。
政府は早々と「身代金は支払わない」旨の声明を出したが、一方で「解放交渉に全力を尽くす」のだという。これは「全力を尽くしたけどダメだった」と言うための予防線でしかないのは明らかで、そもそもカネを要求するテロリストが無収穫で人質を解放するとは思っていないだろう。
また、リスクを承知で自ら乗り込んでいった人質に自己責任論を唱える世論も少なくないうえ、一度でも支払いに応じれば際限なく要求され続けることになり、あるいは世界中に「日本人を誘拐すれば、もれなく政府がカネを払う」というメッセージを発信することにもなる。
とはいえ、日本は良くも悪くもお人好しなお国柄で、例えば日韓基本条約は事実上反故にされたうえ脅迫にも屈したり、イランで邦人が誘拐された時には外交機密費から身代金を支払ったという報道もあり、国民感情や国際的コンセンサスに反した動きが秘密裏に行われる可能性はある。
それ以前に、人質が生きているのかどうかの保証はなく、あるいは2人の影(首や身体後方)の向きが違うなど動画が「別撮り合成」である可能性が高いのも、「少なくても1人はすでに殺されており、(後付けの)殺害理由を成立させるために法外な身代金をふっかけた」という考え方もできる。
ところで、日本のメディアは今朝からこの件で大騒ぎで、中には「もし殺されたら政府の責任」と言わんばかりの論調もある。1977年の日本赤軍によるハイジャック事件で、当時の福田赳夫首相が「人命は地球より重い」旨を理由に身代金を支払ったのは有名な話だが、この言葉を引用するケースも目立つ。
2人の責任の有無は別として、確かに人命は重く尊いものだろう。だが、過去の例を出すまでもなく、在外邦人が事件に巻き込まれると決まってメディアが騒ぎ、政府が右往左往する光景には、少なからず違和感を覚える。
国民の命は(建前上は)全て平等のはずだが、在外邦人に命の危険が迫った場合は首相を筆頭とする政府首脳が対応する一方、国内に住む国民が誘拐などの犯罪に巻き込まれても、動くのはせいぜい地元警察である。
あるいは、日々国内のどこかで起きている殺人事件にしても同様で、政府は基本的に「国民の命の損失」には無関心だ。それも当然で、あまりに事件数が多いため、いちいち庶民の死に干渉していられないのだろう。
つまり、同じ「命の危機」ならば、国内よりも異国の地にいた方が、地方警察などではなく「国家」が対処してくれるのだ。メディアも今回のような「劇場型」は大好物で、「おいしいネタ」という本音は隠しながら正義を振りかざし、したり顔で「命の重さ」を説いている。
結局、命の価値などは「状況」と「注目度」によって上下する株価のようなもの。簡単に「命」という単語を連発する“人権屋”が胡散臭く信用されない理由と本質も、そのあたりにあるのかも知れない。
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カテゴリ : 国際時事