「投票率」を考える

英国北部のスコットランドで、連合王国からの独立の是非を問う住民投票が行われ、反対票(55.3%)が賛成票(44.7%)を上回り、独立は否決された。
このニュースは現地から遙か遠い日本でも大きく報道されたわけだが、「英国(イギリス)が単一国家ではない」ことを今回初めて知った向きも多かったことだろう。また、スコットランド住民の「British(英国人)でもありScottish(スコットランド人)でもある」という感覚は、我々日本人には実感としてピンとこない。
だが、スコットランド独立運動の大きな理由である「北海油田の利権が中央政府に吸い上げられている」ことが独立で本当に解消されるのかどうかは別として、約300年ぶりに完全な自立国になるかどうかという問題であり、住民の関心の大きさは何となく想像できる。
約85%という驚異的な投票率もそれを物語っており、世界中が固唾をのんで投票結果を見守ったのも当然な「国際的一大事」だったわけだ。個人的な賛否はといえば、若かりし頃はブリティッシュ・ロックに傾倒していただけに「ユニオン・ジャック(英国旗)が消滅するのは淋しい」というだけの理由で「反対」だった。
それはともかく、今回のニュースで改めて一般的な公職選挙と住民投票の「投票率の違い」を考えさせられた。
数は少ないものの、過去には日本においても大規模事業の是非などを問うべく、自治体が条例を制定して実施されたことがあった。良くも悪くも住民の生活に直接影響を及ぼすため、議会だけでは決められない(決めてはいけない)ほど大きな事案ということになり、おのずと投票率も高くなる。
一方、通常の公職(特に地方の首長や議会)選挙となると、大抵が目を覆いたくなるほどの低投票率だ。4年に一度の恒例行事であり、有権者には「誰がやっても同じ」という意識が強く、積極的に意思表示をしたいと思わせるものではない。それは国政選挙も決して例外ではない。
民主主義国として、地方における二元代表制は必要不可欠な制度ではあるものの、その存在自体はすっかり形骸化し、有名無実化しているのは誰の目にも明らかだ。政務活動費の不正支出が問題になっても、住民が「血税を無駄に使われた」と声を上げることは皆無に近く、一部の市民団体などが抗議するのが関の山である。
国民全体の「危機感の低さ」を如実に物語っている現象ではあるが、裏を返せば、それだけ日本が平和な国だということにもなる。誰が首長になろうが、よほどブッ飛んだ候補者が当選でもしない限りは革命が起きるわけでもなく、市民生活はほとんど変わらない。その積み重ねが「慢性的な低投票率」に繋がっているといえる。
私は以前、NPO法人の代表として、公職選挙への関心と「自らの意志で選んでもらう」ことを目指し、候補者が一堂に会しての「公開討論会」を道内全域で推し進めてきた。そこで身をもって感じたのが「(自治体の)人口と投票率は“反比例”する」ことだ。
例えば、人口が数千人程度の町の首長選挙で有力候補が2人立つと、まさに今回のスコットランドのように地域が2つに分裂するケースが多い。住民間の繋がりが強いため、それが「しがらみの強さ」でもあるためだ。そういう意味で、札幌市長選は「市民の無関心」の典型例だろう。「今の札幌市長は誰?」という質問に答えられない市民がどれほど多いことか…。
何にせよ、「選挙の低投票率は平和な証拠」などと自慢気に言ってはいられない。この国民的無関心こそが、政治の腐敗と低レベル化を招いたのだから…。
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カテゴリ : 政治選挙