SNSは人の心を豊かにしているのか

親の死を報告しても 「いいね!」

これは、書籍 「本当はコワイSNS」(アスペクト文庫)の帯に記載されている、Facebookの本質を突いたキャッチである。人の意見には賛否両論の感想があるにも関わらず、同意や共感を表す「いいね!」ボタンしかない仕様のため、このような皮肉が生まれるのは必然なのだろう。
まぁ、単なる「私生活の報告」という使い方であれば、共感というより「ちゃんと読みましたよ」という意味合いでクリックされるのかも知れないが…。
Facebook、Twitter、LINEなど、世はSNSが花盛りだ。たしか10年ほど前(だったかな?)、個人的な友人に誘われてmixiに入った。とはいえ、日記などを書いたことは一度もなく、関心のあるテーマのコミュニティに入って掲示板を読むという「情報収集ツール」としての活用が主目的だった。
そしてある時期から、mixiをめぐり妙なことが(ネット上で)社会問題化する。
そう、「踏み逃げ」論争である。
独自の「足あと」機能により、自身のページに「いつ」「誰が」アクセスしたのかが分かるのだが、日記などを読むだけ読んで「コメントを書かない」というだけで「踏み逃げ(読み逃げ)」と言われ、非難の対象になる。これは、「せっかく日記を書いたんだから、読んだらコメントを書いてよね!」という心理だ。
裏を返せば、「コメントを書かないなら、友達としての意味がない」ということか。その日記にどれほどの価値があるかはともかくとして、「友達」の存在意義は己の損得勘定だけで決めるものらしい。
さらに不思議だったのが、「友達の数」がステータスであるかのような価値観の蔓延だ。人格も顔も知らない、会ったこともない人に対してさえも「友達申請」をし、増やしていくことに充足感や達成感を覚えるのである。
「踏み逃げ許すまじ」なのも「友達を増やす」のも、その執着心の根底にあるのは「寂しさ」である。今は「ぼっち」や「かまってちゃん」などという言葉もあるようだが、「自分に感心を持ってほしい」という心理の裏返しであり、それがネット空間だけの付き合いでも「友達が多い」ことに安心し、自尊心が満たされる。
Facebookの「友達」にしろTwitterの「フォロワー」にしろ、今やカネさえ払えば好きなだけ手に入るが、そんな実態のないアカウントすら「たくさん欲しい」と考えているとすれば、その虚栄心はもはや病気に近い。
そんな「サイバー人間関係」がアホらしくなり、以来はSNSに興味がなくなった。だからFacebookもTwitterも、私はアカウントすら作ったことがない。
このブログも広義ではSNSの一種なのだが、コメント欄は閉じており、そもそもコミュニケーションを目的としていない。政治的主張や問題提起を主眼としてるため異論をコメントされやすいテーマではあるのだが、社会的責任や影響力のない「自己満足ブログ」のため、読者と議論をするエネルギーはない。もちろん、事実誤認などの指摘があれば、謹んで訂正させて頂くのは当然だが…。
余談だが、数あるブログサービスの中で最もSNS風なのは「アメーバブログ」だろう。設定によって「アメンバー」以外は記事を読めないようにして囲い込みを図り、必要とは思えない「読者数」を表示してギブアンドテイクさせ、固定読者による「馴れ合いコメント」が溢れる。「芸能人ブログ」に至っては、運営側が常時コメント欄を監視して異論や批判を排除するため、常に「美辞麗句」しか載らないという茶番ぶりで、個人的には大嫌いなブログサービスだ。
ともあれ、この「SNSだけで完結する人間関係」に、自己満足以外の利点はあるのだろうか。災害時など「情報伝達手段」としての利便性は認めるが、血が通わないパソコンやスマホで文章を交換することで、人間としての機微を理解し合えるとは思えない。
当然ながら、SNSをやろうがやるまいが個人の自由であり、私がここで勝手に否定しているだけに過ぎない。しかし先日、誕生日を迎えた友人にFacebook経由で「おめでとう」メッセージが大量に届いた際、それらが「心からの祝辞」なのか「儀礼」なのかは分からないが、大喜びしている姿を見て「何かが違う…」と思ってしまったのは事実だ。
人間関係を充実させたくてSNSを活用し、そのうちSNSに縛られるようになり、挙げ句に「(実態のない)人間関係に疲れた」と退会する者は尽きない。
何事にも言えることだが、便利なツールとは使いこなしてこそ便利なのであり、人生を懸けるものではない。だが、実際の友人である同世代男性の「SNS命」っぷりを見ていると他人事ながら心配で心配で、夜しか眠れない

SNS疲れ
ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)内でのコミュニケーションによる気疲れ。SNSの長時間の利用に伴う精神的・身体的疲労のほか、自身の発言に対する反応を過剰に気にしたり、知人の発言に返答することに義務感を感じたり、企業などのSNSで見られる不特定多数の利用者からの否定的な発言や暴言に気を病んだりすることを指す。代表的なSNSの名称を用いて、ツイッター疲れ、ミクシィ疲れ、フェイスブック疲れなどともいう。 (出典:デジタル大辞泉)
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カテゴリ : 時事社会