福井地裁の「哲学」と「確率論」

写真(C) 共同通信
定期検査中である大飯原発3・4号機(福井県おおい町)の再稼働を認めないという判決が昨日、福井地裁で下された。
上写真は地裁前でハタ(判決等即報用手持幡)が広げられているところだが、訴訟内容を考えるとずいぶんポップな雰囲気で…

それはともかく、福島事故後で初となる再稼働の差し止め判決である。原発に関する私見は以前にも書いているので、こちらやこちらをお読み頂くとして、
判決文からは、裁判官の情緒的かつ哲学的な「感情」が伝わってくる印象だ。
例として一部抜粋すると…
少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。
たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。
…など、反原発派が泣いて喜んだという麗句が踊っている。
なるほど、国民の生命を危険にさらす可能性が万が一でもある限り、再稼働を認めるわけにはいかない…という主旨なのだが、逆を言えば裁判官も文字通り「万にひとつ」程度の確率でしかないということは認識しているようだ。
福島原発事故の直接原因は地震ではなく「津波」であり、当時の民主党政府の稚拙な危機管理がその後の被害拡大を生んだことを考えると、原発の安全性とは別次元の「人災」だった。だが、再稼働にあたってどれほど強固に安全策を講じても、それを判断する人間が主観で「不十分」と言えばそこで話は終わる。
全原発の停止後、日本のエネルギーは火力発電が約9割を占めているが、その原料となる原油や液化天然ガスの多くは、騒乱が絶えない中東各国からの輸入である。その莫大なコストもさることながら、中東情勢の悪化により原料の輸入が全面ストップするような事態になれば「国民が根を下ろして生活していること」自体が成り立たなくなる。福井地裁はその可能性まで考えたうえで出した結論なのだろうか。
「(リスクが)ゼロではない」という確率論を説くのなら、そうした「原発稼働ゼロ時の生命リスク」の確率にも言及して総合的に判断すべきところだが、この判決は原告団に感情的な配慮をした「結論ありき」だった気がしてならない。
ともあれ、今後は高裁さらには最高裁の判断が注目されることになるだろう。
とりあえず反原発派の皆さん、おめでとうございます。
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カテゴリ : 時事社会