震災後1年で分かった「人間の本性」

大震災翌日の北海道新聞
日本にとって悪夢とも言える東日本大震災から今日で丸1年が経過した。感じ方が「もう1年」か「まだ1年」かは人それぞれだろうが、今日が日本人として決して忘れてはならない「記念」そして「祈念」の日なのは間違いない。
津波によって家族や財産を失い、あるいは原発事故によって避難生活を余儀なくされたにも関わらず、被災者たちは力を合わせ励まし助け合い、非常に秩序ある行動を取っていたとして世界から絶賛されたが、同じ日本人としてこれほど頼もしく思った瞬間はなかった。
一方、マスコミや国民を問わず、「非・被災者」たちの利己主義かつ偽善的な言動には呆れるやら腹立たしいやらで、同じ日本人としてこれほど恥ずかしく思った1年もなかった。
私は、わすが2年間ではあるが外国生活を経験した上で、改めて日本という国の素晴らしさ、そして日本人であることの誇らしさを感じてきた一人だ。だが、大震災を機に露呈した人間の欲深さや身勝手さを見るにつけ黙っていることができず、「3.11」から1周年というこの日に、ここで個人的な思いを吐き出すことにした。
おそらく、反論や批判を受けるであろう内容になるとは思うが、たとえわずかの人にでも思いが伝わり、一度立ち止まって冷静に考えてみてほしいという願いから悪者になることにした。そして、自分の未熟さや勉強不足を棚に上げた「上から目線」の物言いも多用すると思うが、一人の国民として好き放題に書かせて頂く記事なので、ご了承いただきたい。
【被災地支援】
多くが“一発屋”だった芸能人の「支援営業」
震災直後は日本中が自粛ムードに包まれ、ツイッターなどで無関係な話題を呟こうものなら、途端に袋叩きにあい、非国民呼ばわりされる現象が続いた。「空気を読む」ことを強要されている国らしい集団心理である。
その反動なのか、東京で芸(仕事)をすることも自粛せざるを得なくなった芸能人が「被災者を勇気づけたい」という言葉を大義に、マスコミ御一行様を引き連れて被災地に殺到した。
「お涙頂戴」という言葉があるように、日本人は涙を呼ぶ感動話が大好きだ。それを知り尽くしているマスコミ(特にテレビ局)は、ここぞとばかりにノーギャラで歌や漫談、または炊き出しをする芸能人の姿を追い、それに感激する被災者の目から流れ落ちる涙にズーム&フォーカスする。そんな「ニュース」がどれほど流されたことか。
だが、そうして被災地入りして報道された芸能人の中で、1年を経過した今でも定期的に足を運んでいる者はどれだけいるのだろう。調べたわけではないが、おそらくその多くが一度きりで終わった「一発屋」だったのではないか。だとすれば、それは本当の善意ではなく、マスコミを使って存在感を示したい、単なる「便乗営業」と言われても仕方がない。
被災者の気持ちを知ろうと避難所で寝食を共にするわけでもなく、その多くが日帰りだったことを考えても、「被災者を勇気づけたい」という美辞麗句の裏に隠された計算が透けていては、「感動をありがとう!」という涙のイベントも薄っぺらな茶番にしか見えない。
競うように寄付金額を「公表」する愚
震災後、被災者の生活支援として、あるいは被災地の復旧・復興の手助けとして全国で募金活動が行われた。日本赤十字社に集まった分だけでも3,105億円を超え(3月8日現在)、人々の善意が具体的な数字となって現れている。
だが、解せないのは芸能人や財界人などによる「寄付金額の発表」だ。寄付とは、あくまでも「可能な範囲で気持ちを表したもの」であり、寄付をした事実やその金額をことさら世間に誇示せず、黙って行うべきもののはずだ。もし、聞かれもしないのに「俺、10万円寄付したんだぜ」などと吹聴する輩がいたら、私はその人間の底の浅さを蔑むだろう。
そういえば、早々に「義援金100億円宣言」をした経済人がいたが、先述した「支援営業」と同様の計算高さが垣間見える好例であろう。もちろん、金額に関係なく寄付行為そのものは尊敬されることだが、元来が目立ちたがり屋のため「黙っていられなかった」ということか。
【がれき処理】
批判回避と「次の選挙」
2月に共同通信社が実施した全国自治体アンケートによると、岩手・宮城両県の被災瓦礫の受け入れについて、回答した市区町村の33%が「現時点では困難」、53%が「まったく考えていない」とし、全体の86%が難色を示しているという。
地元の話で恐縮だが、北海道の高橋はるみ知事が受け入れに積極姿勢を示している一方、札幌市の上田文雄市長は先日、「拒否」を宣言した。「100%安全とは言えない」というのがその理由だ。国の安全基準値に関係なく、微量でも放射性物質が含まれていれば札幌市民の健康に影響を与える可能性があるということだろう。
その背景には、これまでに市内で何度も行われた「反原発デモ」も無関係ではないはずだ。非論理的かつ非科学的で、感情論のみに依拠したヒステリックとも言える反対運動は、理屈では健康に悪影響がないと分かっていても(受け入れを)拒否せざるを得ないほどの「圧力」なのだろう。受け入れないことに対する批判より、受け入れたことに対する批判の方がはるかに大きく、かつ持続する。それでは次の選挙が危うい…と考えたとしても不思議ではない。
今年1月、札幌の40代姉妹(妹は知的障害者)が餓死するという痛ましい出来事があった。ベーシックインカムという制度がありながら、たった二人の市民の命すら守れなかった市長が「190万人の命を守る」と考えてるのなら、矛盾が過ぎて片腹痛い。
花火は拒否も「レントゲン」はOK?
昨年、被災地復興を応援しようと福島県産の花火の打ち上げを予定していた愛知県日進市の花火大会で、放射線の飛散による汚染を理由にした「約20件」の抗議を受け、実行委員会は打ち上げを中止した。また、京都市で行われる「五山送り火」のひとつ「大文字」で、陸前高田市の松で作った護摩木を燃やすという計画も、同様の理由(抗議)で取り止めとなった。
これらも「100%安全ではない」という理由なのだろうが、燃えて出た煙が地表に舞い降り、それを吸って癌にでもなるということであれば過剰反応も甚だしく、「何となく怖いから」という感覚的な思考でしかない。それでいて、自然界に存在する放射線を日常的に浴び続けていることすら知らず、または病院で平然とレントゲン検査を受けるとすれば、笑い話にもならない。
かつての狂牛病問題をはじめ、O-157やユッケによる食中毒、中国産冷凍餃子問題など、マスコミが騒ぐ度にパニックになり、「もう牛肉や餃子は口にしない」という極端な思考停止に陥ってしまう社会現象は何とかならないものか。恐怖感を煽るマスコミと、それを鵜呑みにして判断力を失う国民、どっちもどっちである。
他人はともかく、自分だけは助かりたい
瓦礫の広域処理が進まない限り復興も進まないということは、誰もが理屈として理解しているだろう。しかし、「瓦礫がウチの町に来るとあっては看過できぬ。まだ死にたくないから、よそに持って行け」という反対派は、典型的なNIMBY症候群だ。NIMBYは「Not In My Back Yard」(自分の裏庭には要らない)の略称で、ある特定の施設を、その必要性は認識しながらも「自分の居住地には作って欲しくない」という自己中心的感情で、この場合は施設ではなく瓦礫ということになる。
震災直後は、日本中が「絆」「日本人はひとつになろう」「被災者のため」と連呼したが、いざ首長が瓦礫の受け入れを検討すると「迷惑だ!持ち込むな!」となり、実に9割近くの自治体が受け入れに難色を示す事態になる。口で美しい言葉を並べるのは簡単だが、こうも建前と本音が乖離していては「絆」という言葉も寒々しいだけだ。
人間が生きている限り「健康」「怪我」「命」のリスクは常に帯びているもので、100%の安全などあり得ないことは子供でも分かっていること。「ゼロではないという可能性」だけで物事を語るのであれば、事故が怖くて車にも乗れず、通り魔が怖くて道路すら歩けないことになる。それほどの「ヒステリー」だということを、クレーマーたちは自覚すべきだろう。
【反原発運動】
マスコミ・出版界は大儲け
この東日本大震災という歴史的な大惨事は、被災と無関係の人間や業界にとっては「非常においしい出来事」だったようだ。とはいっても、復興特需が見込める土木・建設業界ではなく、出版を含めたマスコミ業界のことだ。新聞やテレビが国民の恐怖心を煽ってくれたおかげで、「反原発」を唱える週刊誌や単行本が飛ぶように売れたという。
いかに原子力発電が危険かということを書き連ねているのだが、それらは集約すると「放射線を浴びた場合の危険性」にしか辿り着かない。同じことが起きるかも知れないという「可能性」の前提にのみ成立する論理だ。一方で、福島第一原発と同じ程度の揺れや津波に襲われた「女川原発」(宮城県)がなぜ無事だったのかを検証している反原発記事は、少なくても私は知らない。つまり、何ら大局的な検証や考察ができていない…というより、していないのだ。
出版業界は、死者・行方不明者を2万人弱も出した「大津波」はほとんど無視し、現時点では直接起因する死者が一人も出ていない原発ばかりに焦点を当て叩きまくっている。さすがに「反津波」という論陣を張るわけにもいかず、また津波は沿岸部の住人でもない限り「他人事」でしかないテーマだから当然だ。商売のためには、全国に配置されている原発と電力会社を叩いていれば良く、しかも「正義の使者」にもなれるのだ。
そのため、逆説的に「発電方法が原子力でさえなければ万事安心」という誤ったメッセージを流しているという自覚もない。現在、原発の発電量を補うためにフル稼働している火力発電所がどれほどの危険を伴っているのかは、「売らんかな」の思考に染まったマスコミや出版界、そして自分で調べようともしない国民にとっては「知りたくもない話」のようだ。
反対こそが「正義」
「デモひとつ起こさない静かな国民」として知られている日本人だが、原発事故を機に全国で反原発デモが行われている。主導しているのは、市民団体やプロ市民など「革命」という言葉が大好きな左翼勢力が中心だ。しかし、数多あるシュプレヒコールを聞いていても、結局は「原発は危険だから廃止しろ」というワンフレーズに集約され、感情論だけが拠り所であることがよく分かる。
現在の技術力で、風力や太陽光という「再生可能エネルギー」を原子力の代替とする発想が「論外」であることは各方面で証明されているので割愛するが、化石燃料を燃やし二酸化炭素を大量に排出する火力発電に頼らざるを得ない状況を、「地球温暖化阻止!環境を守れ!」とかつて叫んでいた勢力はどう考えているのだろう。世間の関心が高い注目テーマに流れる、いかにも機を見るに敏な動きである。
今や原子力発電は「殺人兵器」扱いであり、これを推進しないまでも「容認」と言っただけでも叩かれる国になった。極端だが、たとえ「震度10の地震」や「高さ20mの津波」にも耐えうる頑強な原発を作ってみせても、(それこそ「可能性」の話として)北朝鮮あたりから核ミサイルを打ち込まれたら、反対派は「ほらみろ、やっぱり壊れた」と勝ち誇ることだろう。
何にせよ、この時期に原発反対を唱えていれば誰からも批判されないどころか、反対運動の象徴として祭り上げられている元俳優もいるほどだ。最近、彼は本を出したが、それは原子力発電や放射線を科学的に検証したものでもなければ、代替発電の提案でもない、単に「俺の生き方かっこいい」である。
芸能界でのポジションはさほど大きくなかったが、反原発ブームの勢いに乗って役者を辞め、一部からはヒーロー扱いだ。だが、熱しやすく冷めやすいこの国で、夢のような反原発バブルがそう長く続くはずもなく、いずれ忘れられる運命だということは自覚しているのだろうか。
声を上げるのは反対派だけ
原発が全廃した後のエネルギー供給の行方、またはその結果による産業空洞化、さらには国力衰退の可能性など、大局的な視点での原発議論が必要と各方面から言われてきたにも関わらず、反対派の「理屈じゃない。ダメったらダメ」という屁理屈に押し切られ、為政者は自らで意志決定ができない事態になっている。
だが、その声は必ずしも住民の総意ではない。先述した花火や送り火の件も同様だが、声を上げるのはほとんどが「反対派」なのだ。その証拠に、この1年で「原発を作れ!推進せよ!」というデモがひとつでもあっただろうか。つまり、反対意見の方が「目立つ」というだけであり、住民投票でもしない限り民意など分からないのだ。
何をするにも反対意見は必ず出るし、瓦礫の受け入れにしても原発の再稼働にしても、多くの賛成者はいちいち声を上げない。99人が黙することで賛成を表明しても、1人の反対者による抗議でも中止や断念に追い込まれるのなら、形だけの民主主義など廃止して社会主義国家になればいい。そういう意味で、東京都の石原慎太郎知事が瓦礫の受け入れを表明し、反対意見にはメディアを通じて「黙れ!」と一喝したことは、手法の是非は別として評価したい。
「反原発論者」も「NIMBY症候群」も、国民レベルで見るとおそらく少数派なのかも知れない。彼らのデモなどをマスコミが無批判かつ条件反射的に取り上げるため、まるで日本中が反対しているような錯覚に陥っている可能性もある。そのため、私の「日本人は…」という括り方もかなり乱暴かも知れないとは自覚している。
◇ ◇ ◇ ◇
…と、ダラダラと言いたい放題を書いてみた。繰り返すが、(一部を除き)私は日本という国も日本人という国民性も大好きだ。だからこそ、被災地はもちろん、少なからず大地震の影響を受けた首都圏などでも皆で助け合っていた姿を遠くから見ていて非常に誇らしかったものだ。
それが、喉元過ぎれば熱さを忘れたようで、言葉のスローガンとは裏腹に人間のエゴイズムが剥き出しになっている。自分さえ良ければいいという考え方も自由だが、その前にもう少し物事を冷静に考え、この狭い国土の住民として理解し合う努力をすべきではないのだろうか。
自分勝手な理屈だが、私は日本人を嫌いになりたくないので。
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カテゴリ : 時事社会