選手宣誓にも「言葉狩り」

写真(C)時事通信
第95回全国高校野球選手権大会が開幕した。
開会式で帯広大谷高の杉浦主将が行った選手宣誓には「素晴らしい内容だった」として多方面から賛辞が送られていた。だが、最近の高校野球における選手宣誓は、本来の「卑怯な手を使わず、正面から勝負を挑むことを誓う」のではなく、オリジナリティを前面に出した「決意表明」になっているような気がする。
特に震災後の大会で目立つようになった「勇気、希望、感動を与える」などという驕った宣誓には閉口したものだが、選手たちはグラウンドでそんなことを考えながら白球を追っているのだろうか…。見世物であるプロ野球興行とは目的が本質的に違うのだから、高校野球の選手宣誓は原点に戻ってほしいものだ。
まぁそれはともかく、今回の杉浦主将は宣誓の中で「すがすがしいプレーをすることを誓います」と言っていたが、昨今は定番の「正々堂々と戦う」という文言が使われなくなっているようだ。これは私が審判員を務める少年野球の世界でも同様で、「全力でプレーする」という言い回しが主流になっている。
つまり、「戦う」という言葉が「戦争を連想させる」という理由から他の言葉に置き換えられる風潮なのだという。「差別」という言葉が大好きな勢力がどこかで異議を唱えたのが発端なのだろうことは察しがつくが、こじつけも甚だしい話だ。
確かに“戦”という言葉は「いくさ」とも読むが、“戦う”とは「互いに技量などを競い、勝負を争う。競争する。試合をする」(大辞泉)という意味でもある。この言葉が不謹慎だというなら、スポーツで日常的に使用されている「対戦」「決勝戦」「不戦勝」なども不謹慎語ということになる。
他に分かりやすい例として、“片手落ち”という言葉がヤリ玉に挙がるケースがある。これは「偏り」や「不公平」を意味するものだが、「身障者への差別発言」だとして苦情の的になりやすい。だが、この言葉の組み立ては「片手・落ち」ではなく「片・手落ち」であり、しかもここでいう“手”は身体の一部のことではなく「その手があったか」などと表現する「方法」を指しているのだ。
いかにも語音をあげつらって差別語扱いされる典型例だが、これでは他にも数多ある「指切りげんまん」「首切り」「手切れ金」など身体の部位を含む言葉は全て差別語にされてしまう。この異常なまでの言葉狩りのせいで日本語文化は壊れていく一方だが、批判や苦情を恐れるあまりに過剰反応し、自主規制してきたマスコミの責任も大きい。
何にせよ、日本には「差別利権」なるものもあり、人権団体や被差別団体などによる理不尽な言葉狩りは今後もなくなることはないだろう。おかしな世の中になったものだ。
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カテゴリ : 時事社会