
昨日は「母の日」。だが、これまで母の日に贈り物をしたことがないため、いつも特別な感慨はない。それは「父の日」も同様だ。
私は高校卒業まで札幌市内の実家で暮らしていたが、誕生日・こどもの日・クリスマス・正月・節分といった「家庭イベント」をほとんどしない家族の中で育った。そのためか、大人になっても両親に(心に内在する謝恩は別として)贈り物などしたことはないし、それは毎年の父母の日も同様だった。
だが、今年の母の日は例年と違い、今年1月に95歳で他界した祖母(母方)のことを思わずにはいられなかった。
昭和41年に結婚した両親は、諸事情により祖母が暮らす母の実家に住むことになった(ただし、婿養子ではない)。母は結婚前から仕事に就いており、私の出産後も1年ほどで職場復帰したという。つまり両親はいわゆる「共働き」だったため、幼い私はおのずと祖母に育てられたことになる。
祖母はいつも優しく穏やかで…なんてことは微塵もなく、「活発で陽気で勝ち気な婆さん」として町内でも有名な存在だった。ある婦人会で旅行に行けば、自分が最年長のくせに「年寄りと一緒だと疲れるわぁ

」と愚痴ってみたり、宗教の勧誘が訪ねてくれば「幸福を神頼みしている時点ですでに不幸」と説教したり、まぁとにかくファンキーな婆さんだった。
一方では「生け花(草月流)師範」と「和裁士」という顔を持ち、この二つの収入で家を建てた努力家でもあった。
祖母は「どんな生き方をしてもいいが、他人様にだけは迷惑をかけるな」が教育信条。にも関わらず、小学校低学年時の私は手癖が悪く、いつも近所の文房具店から「ジャポニカ学習帳」を万引きしてはバレてきた。
その度に祖母は、馬乗りになって私を殴り(返り血も浴びていた)、痛みをもって更生させようとしてきた。今なら間違いなく「児童虐待」と騒がれるだろうが…

私は当時からそんな祖母が大好きで、典型的な「ばぁちゃんっ子」だったのだ。
月日が流れ、祖母は5年前から生まれ故郷である青森に移り住んで余生を送っていたのだが、今年1月、ついに訃報が届いた。認知症気味ではあったものの大きな病気もせず、見事な大往生だったという。
残念ながら死に目に会うことはできなかったが、私の人格形成に大きな影響を及ぼした(善悪はともかく…)のは間違いなく祖母であり、昔も今も感謝と尊崇の念でいっぱいである。
「婆の日」というものがないので「母の日」に、改めて祖母の死を悼みたい。
ばぁちゃん…大好きだったよ、ありがとう。