失考と過信で晩節を汚した二人の元首相 (画像は他サイトより拝借)
※文中敬称略去る9日、前職の辞職に伴う出直し東京都知事選が投開票された。メディアによる事前の情勢分析どおり、元厚労相で政権与党(自公)が支援した舛添要一が2位の宇都宮健児にダブルスコアという大差をつけ完勝した。細川護煕は僅差で3位に終わった。
言うまでもなく、この選挙の大きな話題は、金銭スキャンダルの果てに首相を辞任し、とうの昔に隠居したはずの細川が、「自民党をぶっ壊す」と言って日本をぶっ壊した小泉純一郎とタッグを組み、「脱原発」のみを掲げて立候補したことに尽きる。
だが細川は、唯一の政策すらまとめられず出馬会見が告示前日になったり、いくつか企画された公開討論会からも逃げてばかりいた。政策論争に自信がなく、佐川急便からの1億円献金問題を再追及されるのを恐れたという見方が専らだが、さらに街頭演説ではメモを読みながら…という姿を見て、旗印である原発論すら何も勉強していない付け焼き刃の立候補であることは当初から明らかだった。
特に小泉が繰り返していた「(原発を)即時ゼロにして全て自然エネルギーに切り替える」という、現時点ではあり得ない主張をしてみせたり、「即時ゼロさえ決めれば、具体論は誰か知恵者が考えてくれる」という無責任な他力本願ぶりも健在。主張に具体性も説得力もないという意味で、この二人は見事に低レベルな「似たもの同士」だった。
そもそも、この二人の主張は極端すぎた。今はまだ必要性を認めながら、段階的に原発を減らしていく【脱・原発】を支持する国民は非常に多い。だが、彼らの主張は「即時ゼロ」という明らかな【反・原発】であり、両者は似て非なるものだ。
有権者に極端な二者択一を迫る「小泉戦法」も相変わらずだったが、過去の栄光を今でも引きずり、いつかの郵政選挙で見られた「小泉旋風」が再来し、国民は思いのままになると本気で考えていたようだ。しかし、結果は案の定。政策がカラッポなのに殿様選挙だった割には、よく100万弱もの票を得たものだ。
また、仮にも過去に国家の舵取りを任された元首相コンビが、自らの影響力を利用して日本の経済活動に大きな転換を迫ったのである。ならばこのような不勉強・不見識・非常識は到底認められないはずなのだが、何の疑いもなく当選圏内の有力候補として扱ったマスメディアの思考停止ぶりにも驚いた。
改めて、「反原発」というイデオロギーの欺瞞と病理を検証してみよう。
我々は東日本大震災といえば「フクシマ」(原発事故)を第一に連想してしまいがちだが、その原発事故を誘発したのは巨大地震と大津波であり、約2万人という死者・行方不明者を出したのもこれらの自然災害である。
つまり、圧倒的な犠牲者を出したのは岩手県と宮城県の沿岸地域なのに、メディアや一部国民の関心と憤りは直接的な被害者が出たわけでもない福島第一原発と東京電力に集中した。ここに最大の「まやかし」がある。
反原発論者は再び原発事故が起こった時の話をするが、だとすれば、それはまず巨大地震や大津波に襲われることが大前提だ。特に三陸沿岸では大津波の前例があったにも関わらず、防災対策が結果的に不十分だった政府や自治体は無罪放免となった。
そして万単位の犠牲者を出した自然災害には一切触れず、あたかも「殺人兵器である原発」さえ無くなれば日本は万事安心だという、感情論だけに依拠した反原発論者が跋扈した。彼らは一部から「放射能」ならぬ「放射脳」と揶揄されたが、それも当然だろう。
また、反原発論者は口を揃えて「(福島第一原発)事故は人災」というが、主原因は全電源喪失であり、多くは政府の判断ミスによってもたらされたことが明らかになっている。つまり、人災ならば十分な対策を施せば事故は防げるわけで、「稼働すなわち危険、命が危ない」という短絡的な思考は論理的に破綻していることに彼らは気付いていない。原子力が人間の手に負えないものであれば、この事故は人災ではない。
都知事選中、小泉は「事故以降は原発なしでも乗り切れたのだから、今後も電力には困らない」ことを論拠のひとつにしていたが、それは火力発電をフル稼働させ、国民や企業に節電を強く求めて使用電力を削減したことによって、ようやく実現できただけのこと。そのためにどれだけの経済が失われてきたことか。
2010年現在の自然エネルギーは、水力8%、地熱・バイオマスで2%である。風力は論外と考えると、太陽光発電で残り90%を賄えるはずもなく、現時点では火力発電に頼るしかないのが現状だ。自然エネルギーや再生可能エネルギーでも日本は今後も発展するという「小泉論」はあまりにも夢想的であり、もはやファンタジーの領域だ。
とはいえ、CO2を大量排出する火力発電所は老朽化も進み、莫大な輸入コストも含めて日本経済の命運を外国(輸入元)が握っていることも考えると、決して安定的な発電方法にはならない。きちんと対策をした上での原発再稼働が現時点ではベストの選択肢であり、センチメンタリズムに支配された非現実的な理想論が入る余地はないはずだ。
頻繁にニュースが流れる「殺人」には他人事として気にも留めない一方で、多くの他人の「命を守る」ことを大義に再稼働阻止を叫んでいるのが反原発論者たちだ。こんな偽善にでも賛同する者は少なくないため、そんな自分にも酔っているのだろう。同様に「地球を守る」ためにエコロジーを実践しながら原発の廃止(=火発フル稼働)を支持する矛盾思想に至っては笑止千万である。
ところで、原発事故当時を振り返ってみると、放射能汚染に対する恐怖の中で「ベクレル」や「シーベルト」といった聞き慣れない言葉が飛び交い、その基準値はコロコロ変わり、国民の動揺に便乗するように怪しい学者たちがさらに恐怖を煽るような言辞を吐いていた。
そして反原発論者たちに共通していたのは、事故の際、恐怖のあまりすぐさま「脱(反)原発」を口にしてしまったことだ。これでマスコミ世論に火がつき、もはや引き返せないところまで来てしまった。そのため、反原発論の矛盾や欺瞞が指摘され始めると辻褄合わせをしなければならなくなり、さらなる論理破綻を引き起こすというジレンマに陥っていた。
さらに、反原発派による扇動で必ず引き合いに出されるのがチェルノブイリ事故だが、市民の被曝は数千ミリシーベルトもの放射線によるものであり、福島とは桁が2つも違う。それを「チェルノブイリの再現」だという論陣はあまりに稚拙で呆れるほかない。使用済み核燃料の最終処分の話にしても、「全原発の廃止」が現実になったとして、それらの燃料も全てゴミになるということを誰も言わない。なぜなら「どうしていいのか分からないから」である。
福島第一原発事故をどのように解釈するするのも個々の自由だが、小泉のように非論理的でヒステリックに反原発を叫ぶ「放射脳」に共感する国民は確実に減少しているのは都知事選の結果を見ても明らか。これをもって民意が「原発推進」では決してないのは当然だが、都民が一番に望む景気回復のためには、安定した電力供給が不可欠なのは当然だ。
何にせよ、日本では原発について地に足のついた議論が未だにできていない。原発論が「科学」ではなく「イデオロギー」(政治的主張)になってしまっているのも一因だろう。ちょうど1ヶ月後には東日本大震災から丸3年になるが、特にメディア各社は、そろそろ大人になった報道姿勢を見せてほしいものだ。
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